立川シネマシティで『涼宮ハルヒの消失』の極音上映が行われたので観てきたところ、通算十数回目の視聴にして色々と考えるところがあったので筆を執った。
今更か、というのは自分でも感じているが、名作は何度見ても毎回新しい発見があるものだ。
キョンの変化を描くための物語
『涼宮ハルヒの消失』は、原作者の谷川流が「義務のような作品」「『涼宮ハルヒ』シリーズには必要な話」と評する通り、本シリーズにおいてなくてはならない話だった。
キョンはいわゆる「巻き込まれ型やれやれ系主人公」で、ハルヒのエキセントリックな言動に振り回されては愚痴をこぼすというスタンスを取っていた。
もちろん、総監督の石原立也から「『涼宮ハルヒ』の一番のツンデレは、ハルヒじゃなくてキョンなんです。」と評されるキョンにとって、それはあくまでポーズであり、実際にはSOS団での日々を楽しんでいるのだろうというのは察しが付く。
しかし、これをいつまでも続けていると、キョンがハルヒと共に過ごす理由が「楽しいから」なのか「お人好しだから」なのか「単に辞めどきを失ったから」なのか、少しぼんやりしてしまう。
そこで、キョン自身が、自分の行動を、自分の心情を、ハルヒに対する気持ちを、今一度見つめ直す機会が必要だった。
物語終盤でキョンが自問自答するシーンが5分近く描かれている通り、これは本作最大のテーマと言っても過言ではないだろう。
理由2:キョンが主人公になるため
キョンは、宇宙人、未来人、超能力者、涼宮ハルヒに囲まれ、唯一の一般人である自分をどこか傍観者のように捉えている節があった。
しかし、突然それらすべてを失ったキョンは、必死に、能動的に、積極的に行動を起こす。
そして、元に戻しただけとは言え、自らの手で世界を選択し、再改変した。
『これで完璧に当事者の一人になってしまった。見てるだけでいいかと思っていた時期は過去のものとなり、SOS団の面子と同じく、俺はこの世界を積極的に守る側に回ってしまったのだ。』
このセリフの通り、本件を以てようやくキョンはこの物語の、この世界の主人公となった。
涼宮ハルヒがかわいい件
そもそも今回の考察に至ったきっかけは、『消失』のハルヒが何だか一際かわいく見えると感じたことだった。
そして、自分なりにその理由を考察してみた結果は、「『消失』において、涼宮ハルヒはキョンが追い求める世界の象徴であり、燦然と輝くメインヒロインとして最大限魅力的に描かれているから」というもの。
本作でキョンは長門から改変後の世界への勧誘を受けるような形になるが、キョンはその誘いをきっぱりと断り、世界を元に戻すために積極的に行動することになる。
となると、その最大の原動力である涼宮ハルヒという存在が、キョンにとってどれだけ大きくかけがえのないものであるかを描く必要があるし、もしそこが欠けてしまっては選ばれなかった側の世界、ひいては長門有希にとってあまりにも救いがない。
監督の武本康弘が本作の制作にあたって「ハルヒはキョンにとっての太陽」とスタッフに言っていたそうだが、まさしくそういうこと。
ちなみにもう一つの理由として、光陽園の制服とロングヘアーのビジュアルが個人的に好みだったから、というのもある。
長門有希に蓄積されたエラーデータ「感情」の正体
キョンは『お前は疲れていたんだ。』と言うが、個人的にはこの「感情」の中にはキョンに対する好意や、ハルヒに対する嫉妬心すら含まれていたと考えている。
キョンの言う「疲れ」と合わせると、好きな男と観測対象がよろしくやってるのを見せられてその上後始末までさせられている、みたいな認識。
もちろんこんなストレートにどす黒い感情ではなく、実際にはちょっとしたモヤモヤやチクチク程度のものだろうが、つまり長門はそういう面倒臭いものが芽生える程度には「人間」に、そして「女」になっていると思う。
その考えの根拠となるのは、世界改変の内容から滲み出る「人間臭さ」「女らしさ」である。
―なぜ涼宮ハルヒを消失させた?
キョンの言う「疲れ」から解放されたいだけならば、長門有希から情報統合思念体としての能力を取り除いた時点でおおむね達成できているはずだ。
もちろん、ハルヒの性格が改変されるわけではない以上、再びSOS団が結成されて謎の活動に駆り出されるという可能性は残るが、そんなものはこれまで長門がやってきたことに比べれば「やれやれ」程度のものである。
涼宮ハルヒをキョンの前から消失させ、長門有希をあざといまでに可愛らしいキャラクターに仕立て上げ、更に言えば朝倉涼子を護衛として利用する。
ここには「疲れ」だけでは片付けられない、「人間臭さ」「女らしさ」が介在していると勘繰らざるを得ない。
この辺りの解釈は人によって分かれるところだし自分自身上手く整理できていなかったが、絵コンテを手がけた高雄統子が「長門は『女』だなと思っていたんです。きれいじゃない部分が見えるから、感情移入できたんです。」と話しているのを見て、ようやく自分の考えをまとめることができた。
ちなみに、長門とキョンの関係性についてはTVシリーズの方にも布石がある。
原作者の谷川流が脚本を手がけ、2009年放送版では最終回になっている『サムデイ イン ザ レイン』だ。
キョンが大森電器店までストーブを取りに行く間、ハルヒ・みくる・古泉は撮影に出かけ、長門は部室で一人本を読み続ける。
ここで、まず鶴屋さんがみくるを訪ねて部室に訪れた際、長門は3人の行き先を教えるが、その後キョンが部室に戻ってきてハルヒたちの居場所を尋ねた際、なんと長門はシラを切るのだ。
このシーンからは、長門の「キョンにはハルヒのもとに行かず、私とここにいてほしい」という意思が感じ取れ、すでに彼女の中にはキョンに対する好意やハルヒに対する嫉妬心が芽生えていると推察できる。
全体を通して
この記事をキョン、涼宮ハルヒ、長門有希の順番で書いたのにも一応理由がある。
『消失』は長門有希の物語だと思いがちだが、やはりそれだけではないということを再確認した。
これは総監督の石原立也が語った「この『消失』という物語は表に長門が立っていますが、キョンとハルヒに焦点を絞っているんですよ。」という言葉からも読み取れる。
前述の通り、この物語に最も欠かせないのはキョンの変化で、そのために必要なのは涼宮ハルヒの存在で、そう考えると長門有希はあくまで舞台装置に過ぎなかったのかもしれない。
しかし、それをただの舞台装置で終わらせず、むしろ長門有希をメインに持ち上げる話作りの上手さに改めて感服した。
というわけで、『涼宮ハルヒの消失』を今更ながら考察してみた。
これ本当に記事になるかなーと思いながらとりあえず思ったことを乱雑に打ち込んでいったら、それが頭の整理に繋がってまた色々と考えることができたので、とにかく書き始めてみることが大事だと悟った。
ちなみに、本記事で用いられているスタッフの言葉はすべて『公式ガイドブック 涼宮ハルヒの消失』のスタッフインタビューからの引用なので気になった方は是非。
それでは、普段同じ作品をあまり繰り返し見ない人間が言うのもなんですが、皆さんも名作は何回も見ましょう。